2015.07.07

Little Tales of British Life ロンドンってイングランド?

国の中枢を司る機関が何故ロンドンの城壁の外にあるのでしょうか?

世界中のどこの街に行っても、お城や王宮は城壁の内側にありますが、ロンドン塔は城壁(シティ・ウォール)に沿って、その大半の部分は外側に位置しているように見えます。ウォールの内側にやや強引に入ったロンドン塔の一部でもその境目は明確で、シティ・ウォールとロンドン塔とは完全に別個のものであることが判ります。

さて、ロンドン塔とか、英国議会のビッグ・ベンとか、英国首相官邸とか、国の中枢を司る機関が何故ロンドンの城壁の外にあるのでしょうか?
ちょっと大雑把な説明をすると、11世紀の初め、ノルマン人の一派デーン人は侵略したイングランドから支配者を追い出しましたが、巨大商業都市国家であったシティ・オブ・ロンドン(以下シティ)は攻略できなかったのです。それ以来、城壁の外にイングランドを征服した王家が事務所(兼王宮、兼施政、兼司法、兼各行政施設)を建てたわけです。

ですから、今でもエリザベス二世女王陛下をはじめとする王室の皆様はグリフィン像を越えてシティに入る際には、市長の許可を得なければならないというルールが残っています。

王立裁判所の前を東西に走るストランド(通り)には、シティとイングランドとの「国境」としてグリフィン像(Dragon Boundary Mark)が設置されている。

実は、この話、これまでの10年間に小出しにしながらいろいろな媒体で語って来たことですので、読者の皆様の中にはもうご存知の方もいらっしゃると思います。しかし、シティ・ウォールのいろいろな門の言われを語る本物のロンドンっ子と言われるチープサイド生まれの人々でさえ、城壁自体が何百年間も市民の実生活の中に組み込まれて来たにも関わらず、意外にご存知ないことのようであります。

城壁都市ロンドンには外界に通じる門が在りました。それは今でも地下鉄などの地名として残っています。ムアゲイト、ニューゲイト、ビショップゲイトなどの城壁門はすべてローマ街道として、イングランド各地の港やヨークなど地方の主要都市へと繋がることも見逃せない都市が発展して来た重要なポイントです。シティ・ウォールから各地に向かって放射状に広がる街道は、幹線道路であり、軍用道路であり、ローマ人の交易路だったのです。古代から近世まで、道路と言えば自然を最大限に利用するために、水はけを考えて尾根伝いの険しい道が作られたわけです。ロンドン城壁の中は豊かな物資と商人や職人に溢れ、11世紀にノルマン人がやってくる以前から、この地域で最強の都市国家が築かれ、何世紀もの長い間富の集積地になっていました。

ロンドンの城壁沿いを歩いていると、このような青い名盤(ブルー・プラーク)が出現します。このオールダーズ・ゲイトの他にオールド・ゲイトやニュー・ゲイトのような造成年代順に名づけられたゲイトがいくつかあるのですが、12世紀から改修や増築を繰り返しているうちに、ニュー・ゲイトが最古のロンドン城壁門になってしまったようです。
以前、アムスベリー 加恵さんが掲載された記事で、ロンドン博物館の裏手には荒城の跡地を思わせる城壁跡が残されています。静かでとても雰囲気の良い住宅地と併設されています。中国人の青年とは、この砦の傍のベンチに腰かけて長話をして、仕事のアポに遅刻しました。

イングランド、つまり略奪で富と軍事力を強固にした現王室の祖先たちと、集積した富とその財力で構成した軍事力を維持するシティとの2つの国家は、11世紀の衝突の時点で互いの軍事バランスを考慮して均衡の状態を作りだし、その後長いこと平和な関係を続けたのです。なにやら現代の安全保障の構図にも似ていますね。そして、現代に至るまで、シティとイングランドは一度も交戦していないのです。

「争わないで、まあ仲良くやりましょうや」という均衡の感覚。これは英国式の中庸の精神を育む土壌にもなったと言われます。過度の意識を好まず、現状と相手の立場を尊重する寛容の国民性が作りだされた背景には、この均衡の感覚があればこそ、長年の間に伝統的な外交術として確立したという説もあるのです。

2014年の11月、戦没者追悼記念の日までにロンドン塔の濠を鋳物のポピーで埋め尽くそうという企画が行われました。ポピー(ひなげし)は第一大戦の英国並びに連邦諸国の戦没者数である100万に及びました。この濠の右側がシティ側、つまり西側になります。シティとイングランドとのボーダーであった濠の水は干潮河川であるテムズから引いていた時代もあったのですね。境界には擁壁だけでなく、掘割の水も使われたということでした。

シティとイングランドとの間には城壁という文字通りの壁があったわけですが、それも共存共生の歴史が進んでいくうちにあまり大きな意味を持たなくなってきました。その城壁が物理的にも、且つ精神的にも崩れたのが、1666年のロンドン大火です。シティは急速に弱体化し、イングランドの援助が必要になったわけです。

ところで、そのロンドンの規模ですが、如何ほどの広さでしょうか? テムズ川北岸の城壁を辿るとわずか2.6?に過ぎないカマボコ型の小さな地域です。もちろん、それでも城壁都市としては世界でも大きい方です。城壁は最大時にはテムズ南岸のサザーク近辺にも拡大した記録が残っていますが、その時代でもロンドンの真の中心地は、現在と同様にカマボコの内側だったのです。

タワーヒル駅前の城壁跡。銅像はローマ帝国のカエサル(シーザー)です

ロンドン(近郊)に長年棲んでいると、どうしてもシティ・ウォールに触れたくなります。たまに城壁沿いの散策をするのですが、数年前にロンドン博物館の近くを通りかかると、城壁の残骸を臨む濠の脇にあるベンチに座っていた中国人青年が丁寧で綺麗な英語で語り掛けて来ました。「ここに誰かが通ってくれるのを2時間ほど待っていました。この城壁を背景に私の写真を撮って下さい」撮影後、山東省から来たと言うその青年としばらくの間、世界の城壁の工法と技術の発達について話し合いました。「また、いつかどこかで」と言って別れるとき、城壁と語っていたような不思議な気分になりました。
城壁を造った人たちだけでなく、城壁とともに生活してきた過去の人々の姿を想像してしまうというのはいささかマニアックでしょうか。役割を終えた城壁の姿がいつまでも残っていてくれるだけで、我々はいつでも過去にアクセスし、何かを学べるような気がしました。城壁に限らず、古いものやヴィンテージものは過去と現在とを繋げ、未来を想像させてくれる基点を作ってくれるのですね。


2015.7.8
Text&Photo by M.Kinoshita

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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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