2015.08.04

Little Tales of British Life 黒い森の記憶

牧草地以前、禿山になる以前の英国の原生林はどんなところだったか想像されたことはあるでしょうか?

2014年8月に寄稿した記事「英国で一番好きなところはどこですか」を思い出して頂きたいのですが、実のところ、あのカルスト台地の連続する広大な緑の景色は英国の自然史や生物多様性を語る上では、必ずしも評判が良い風景とは言えません。高校世界史を学んだ方でしたらご存知のように、住宅建設や燃料にするために木を伐り過ぎて木材が英国の国土から足らなくなる一方で、農業革命で小作農地も減り、森林は牧草地へと変化して現在に至っています。

人口が増えると、英国内では自給自足が成り立たなくなりそうだ。ということで展開した歴史が大航海時代です。さらに、外国から利益を搾取する植民地時代にも繋がって行きます。牧草地を眺めるだけで、その背景となる過去から現代へのストーリー展開が可能なのですね。しかし、牧草地以前、禿山になる以前の英国の原生林はどんなところだったか想像されたことはあるでしょうか?

このような原生林に見えるところも、長年の間に人間の手が及んでいます。ご覧のようにまだ低木ですが、広葉樹を復活させる計画を行政が実行中しているイングランドのサリー州のある地域です。黒い森に戻すには何十年も掛かるのだそうです。

大人気児童文学のハリー・ポッターの中で登場する森の姿はディメンターやオオカミやらわけの判らない動物たちがたくさん出て来ます。「ここに居たら人間は死ぬ。殺される。食べられる」というあの森こそ、有史以前から続いてきた自然の世界なのです。生物学で言えば、森の中での人間は食物連鎖のサイクルに組み込まれ、鹿やイノシシくらいの動物の捕食者である一方、オオカミや熊の餌食でもあるということですが、森の中には自然の摂理はあっても、文化や文明の届かない恐ろしい場所だったということなのです。

英国人は子供の頃から暗黒の森の記憶を学んで育ちます。実際に存在した猛獣の他に、一人暮らしの魔法使い、幽霊、妖怪、そして魑魅魍魎などは、人間自らが作りだした禁忌のシンボルです。危険への抑止を促す意味も含めて、決して近づいてはならない恐ろしい森の記憶です。中世ヨーロッパの代表的な森の中の寓話と言えば、「赤ずきんちゃん」「ヘンデルとグレーテル」「3匹の子豚」などが挙げられます。英国でもシャーウッドの森の「ロビンフッド」、英国南部を駆けめぐる「アーサー王物語」など伝説のプロットとなる舞台も森の中がその大勢を占めています。森は生きるために欠かせぬ狩場でもあり、常に死と向かい合わせの場でもあったということです。

大自然に文化的な価値観を植え付けたのは、奇しくも英国が産業革命で自然破壊を続けた後でした。最初はワーズワースを始めとするロマン派の詩人たちが始めた自然保護運動で、やがてピーターラビットの作者ベアトリクス・ポターも関与しました。自然破壊の様子を見て、「あ、これはちょっとやり過ぎたな」と思ったことが、ナショナル・トラスト運動など現代の数々の自然保護運動に繋がった最初です。

ところで、森林を牧草地にしてしまった段階で「やり過ぎ」に気付いた人たちも居たかもしれません。南イングランドのケント州にペンズハーストというマナーハウスがあります。この近辺で15世紀ごろにブリテン島最後の熊が殺されたという記録が残っています。住み処の森を失った熊が人里に迷い込んで絶滅したということになります。殺された場所は奇しくも林檎の木の下でした。この記録が残っていることこそが、英国人の「やり過ぎ」の自覚ではなかったかと思うのです。

ペンズハースト・プレイスは14世紀に建てられた風光明媚なマナーハウスと庭園です。イングランドの南部ケント州に位置します。15世紀の中頃、ブリテン島最後の熊が矢で射られて殺されたのは、この屋敷のすぐ近くの果樹園だったと言われています。

熊をモチーフにしたトピオリ―も庭園内に置かれています。

英国人の気質として、極端を好まないところがあります。中庸(正しい中間点を選ぶこと)という学者もいます。「分を知る。足るを知る」という意味で、欲望の抑制装置を持っているのですね。やはり本流は「極端なことをしない」「極端な思想から一歩引き下がって傍観する」ところが英国人のクールな気質であると思います。

極端な事を考えないのではなく、極端な状況までいろいろと考えた上で、一番悪くない(あるいは、一番好ましい)状況に至ることを提案し合って、周囲の他の人たちとの議論を重ねて、最良の選択をするのです。

最後の熊が絶命した地点は、もはや実のならぬリンゴの老木の下です。本来の木の形は崩れながらも生きながらえている不思議な木で、樹齢は500年以上と言われています。英国最後の熊に向かって矢を射った人物には黒い森に対する恐怖の記憶はあっても、絶滅種に対する配慮は無かったのでしょうか。

「ちょっと自然を破壊し過ぎちゃった」と気付いた人が、極端に利益ばかりを追及する人に「もう充分でしょ」と諭すこともあるわけです。

英国の国土を昔の姿に戻そうという姿勢は、コモンズの考え方を見直すところから始まっています。人間中心のコモンズから、生物全体のコモンズへ。英国人の自然観は変化して…、いいえ進化していますね。



2015.8.5
Text&Photo by M.Kinoshita

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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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