2018.02.06

Little Tales of British Life 「宇宙からBrixtonを見つめる」 繰り返されるジェントリフィケーション

2005年、ファッショナブルな街に変わりつつあるロンドン南部の街、Brixton界隈を取材していた初夏のこと。昼過ぎのキリスト教会の礼拝堂で、メモを取りながら数分間ひと息ついていました。そして、教会から出るとき、重たいドア越しに初老の黒人男性が話し掛けてきました。「最近、神を信じる者が少なくなった。日曜の礼拝はガラガラだし、お前のように祈りを捧げに来る者などほとんどいない…」 その実、教会の利用法としては、お叱りを受けそうですが、当方は歩き疲れた脚を休めるために、教会の末席に座っていただけでした。男性は言葉を続けます。

「ゴスペルを歌う彼らは祈りのために来ているわけじゃない。歌を楽しみに来ているだけだ。今ではディヴィッド・ボウイとかボブ・ディランの歌に影響されて、真理を悟ったつもりになって、皆が信心を失ってしまったようだ…」 要約すると、大体そんな話でした。一方的な話でしたが、確かに1970年代ミュージックの内容は若者を信心から引き離してしまったかもしれないなぁと妙に納得したものです。70年代からイギリス人の教会離れが始まったのは、音楽の影響であるという説もあります。

さて、Brixtonと言えば、150年前のヴィクトリア時代には、シティへの通勤圏として、さらにイギリス人中産階級の住宅地として開発され、お洒落で買い物も楽しめる人気の街でした。

Then and Now : Electric Avenue from Brixton Road.(ご参考)
http://www.urban75.org/brixton/history/electric.html

1880年にはロンドンで最初に電気街灯が設置されるほどイギリス国内でも最先端の街であったことを示すelectric通りは今でも残っています。当時の華やかなBrixtonの様子は多くの画像で確認することも可能です。しかし、当方の初めて経験したBrixtonは、現代ともヴィクトリア時代とも少し異なった空間でした。

20180206_image2 画像はブリクストンではありませんが、1902年頃と言うと、街はこんな雰囲気だったのではないかと思われます。

実際に体験したBrixton

まだ商社マンだった1980年代の終わり、季節はちょうど今頃の厳冬の時期。夏でこそクリケットの観客で賑わうオーヴァル・スタジアム辺りに事務所を構える企業との打ち合わせを終え、帰途に着くと既に午後7時過ぎ。会議の緊張感から解放されてぼんやりとしたまま、ひとりで真っ暗な道を歩いていました。その頃はロンドンの中でも、まだ行き慣れない地域がたくさんありましたが、道路標識を見て「あ、このBrixtonロードは通勤途中の通過駅と同じ名前だから、駅の近くまで来ているのかな」と、かなりいい加減な見当で南に向かってBrixton駅を目指して歩を進めました。

ところが、行けども進めども駅が見えて来ない上に、ロンドン中心部から離れてくると道路脇もゴミだらけで荒(すさ)んだ感じになってきます。「なんだか、スラムっぽいなあ」とつぶやきつつ、場所を確認したくなりました。しかし、地図の本「A to Z」を取り出して、場所を確認しようものなら、誰かに不意を突かれて攻撃されるような雰囲気なので、ともかく速や足で駅を目指しました。

20180206_image3 1960年代になると有色人種の移民も集まる地域へと変わってきました。鉄道が便利になると、中産階級は庭付きの住宅を求めてグレーター・ロンドン地区へと住居を広げる一方で、シティの周辺は低賃金労働者の集まる地域へと変化していきます。

車の交通量はあるのですが、歩く人はほとんどいません。時おり、暗がりに人の気配がします。目を凝らすと、ヨットパーカーを被る背の高い人影が車のライトによって浮かびあがります。身体の動きや体型で身の軽い黒人のような気がしましたが、定かではありません。妙な緊張感を伴ったまま30分ほど歩いてBrixton駅に到着。駅周辺の壁や閉じられたシャッターは落書きだらけで、すえたニオイを放つ麻薬常習者が厳寒の中で路上にうずくまっています。駅構内のあかりもわずかでとにかく暗いのです。黒人の若者たちの意味不明の叫喚が構内に反響し耳に突き刺さります。

ブリティッシュレイルのBrixton駅のプラットフォームに入ると数名の人影。なぜか彼らはあかりのないところに立っています。しかも、全然動きません。目を凝らすと彼らは銅像でした。「ああ、いつも通過中の電車の中から見掛けるあのリアルな銅像たちか」と思うや、プラットフォームには当方しか居ないようです。しかし、ヒトの気配は感じます。ごく微かな呼吸音、普段から喫煙をするヒトの息と体臭…、誰かがこちらの様子を伺っています。あの銅像たちに犯罪の抑止力はないだろうなあ。と思いつつ、後日聞いた話では、犯罪防止のために1972年頃に設置された銅像なのだそうです。

ようやく各駅停車の列車が来て、無事に帰宅すると、妻に言われました。「ああ、恐ろしい。もう二度とBrixtonから電車に乗らないでください」1980年代の話です。

20180206_image4 ブリクトン駅のプラットフォームにはこのような生々しい銅像が数体設置されています。
急行列車でもこの区間をゆっくりと走行するので、車窓から見る銅像たちはリアルで動き出しそうに見えます。この銅像に犯罪の抑止力があったという話は聞こえてきません。

階層の分化

ロンドン周辺には、特定地域の人々との付き合い方に不心得の者が行ってはならないエリアがあったのですね。当時のBrixtonのような街は、ロンドンの周囲には至るところにありました。 白人住民は相対的に少なくて、いわゆるchavと呼ばれる反社会的な若者とその家族、生活保護を受けている人たち、移民(イギリス連邦からの移住者も含む)、そして難民などが住む公共住宅の多く存在するエリアでした。

やがて、そのエリアの中でも、特に移民の子どもたちが成長すると、20~30年後にははっきりした分化が起こっていました。子どもたちの教育に投資をする移民もいます。優秀な子どもたちは政府、企業、団体から奨学金などの援助を受けて進学し、大学以上の教育を受けることもあります。そして、進学や就職のためにこのエリアから一旦脱出し、自分の住んだところや似たようなエリアの公共住宅の一軒を買い取って、新居や仕事場や店舗として彼らの人生を展開して行くのです。豊かになって里帰りした彼らや、ロンドンに近い街に興味を持ち外部からやって来たインテリジェンスな若者たちはジェントリファイアと呼ばれ、ジェントリフィケーション(都市再編現象)の立役者になったのです。

一般的には、かつてのスラム地帯や貧困層の居住エリアが、再開発や新しい産業の発展などで経済、社会、住民の構成が変化することをジェントリフィケーションと言いますが、具体的には上に述べた以外にも様々なケースがあります。他の言葉に置き換えると、高級化、中産階級化、階層浄化、社会浄化というアイテムが並びます。

20180206_image1 ジェントリフィケーションの前段階では、多種多様な種族、民族が移り住んで来て、その子どもたちが、ひとつの学校で多くの文化を経験します。イギリス式の教育がその受け皿になるのです。左からパキスタン人、ルーマニア人、そしてカザフスタン人の子どもたちです。彼らの通う学校は2000年頃まで、犯罪児童が出るほどイギリスで最悪と言われた学校でしたが、三食の給食制度を導入するなど、従来の教育現場とは異なる人道的な取り組みを経て、2005年までにはイギリス最優秀のモデル校へと変化を遂げました。ちなみに、その校長先生は教育者ではなく、自ら培ったマネージメント経験を学校経営に役立てたのでした。ジェントリフィケーションの良い側面の背景が見えてくるような気がします。

ざっくりとした説明になりますが、準貴族を由来とするジェントリ(郷紳)とは、ジェントルマンの語源でもあります。産業革命以降に台頭した新興勢力の人々もこのジェントリ層に加わり、貴族社会や社会奉仕活動にも関わっていきましたので、中世から近代まで、社会の変化に伴って、立場の流動性も兼ね備えた地主や富裕層がジェントリと呼ばれました。しかし、現代の新たな上流階級はジェントリに仲間入りするのではなく、ジェントリファイアと呼ばれ、イギリスだけでなく、世界の都市で新たな社会階層の変化を起こしています。以上は、あくまで当方の理解ですので、正しい認識は他にもあるかもしれません。

ジェントリフィケーションの異なる側面

ジェントリフィケーションには、街がキレイになるとか、経済が活性化するとか、安全性が高くなるとか、住みやすくなるという心地よい印象を受ける側面もある一方で、同じ場所に長く住んでいた人たちを追い出してしまう現象も起きてしまいました。

なぜなら、高級化が進むと、家賃や税金が高騰して、長年同じところに住み続けていた人々には支払い能力が伴わなくなるなど、彼らが住みにくくなる他の要因も伴って居場所を追われることもあるからです。旧居住者が減るわけですから、構成されていたコミュニティも崩壊すると、カリビアン独特のサイケデリックな八百屋も、インド人や中国人の経営する香(かぐわ)しき食材店も無くなって、最終的にはどこにでもある大資本の店舗や同じチェーン店の並ぶ個性のない姿へと街は変化して行きます。

20180206_image6 20180206_image7 ヴィクトリア女王の時代にPeabody Trustが作った低賃金労働者用の住宅。今では内部をぶち抜いて、2軒分を1軒にして広くした部屋もあります。至るところに監視カメラCCTVが設置されています。画像は2010年頃のものですが、そのわずか10年前までは犯罪の巣窟と言われた地域です。ロンドン・ヴィクトリア駅からここまで徒歩で5〜6分。

Brixtonの出身者

また、過去のBrixtonの名誉のためにここで語るべき出身者もいます。ディヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズという長たらしい本名で6歳(1950年代)までBrixton近辺で育った人物と言えば、歌手の故ディヴィッド・ボウイ。王道の音楽を発信した人ではないけれど、社会や人生の本質を見極めようとしていた芸術家という印象を持っています。

パンクロックのように、一旦は破壊するけれど、彼の歌には未来へのメッセージが込められている。という論評を語る芸術家もいます。なにやらジェントリフィケーションを予見していたようにも聞こえてきます。そして、宇宙から地球を見る人、俯瞰した目線で音楽を創作する人であって、自分自身さえも宇宙から眺めていて、自分が地球の構成要因のひとつに過ぎないことと、宇宙とBrixtonとの関係や必然性を説いているという評価もあります。文化全体を背景にした感性を音楽で自己を表現するだけに、最後は自分の死までを作品化したアーティストであるという論評も有名ですね。

20180206_image5 イギリス政府系の機関誌global issueに掲載されたディビッド・ボウイ。ジェントリフィケーション現象の進む以前のブリクストン近辺で生まれ育った彼は、自分の死までも芸術に転化しました。ジェントリフィケーション現象の中で成功者とされる人たちは高等教育を受けた者、ビジネスに成功した者、そしてボウイのようなアーティストも含まれるわけですが、ボウイはこの現象から我々が進むべき方向性を示唆するために、自分と宇宙との関係を音楽に著わしたと言う評論もあります。

ボウイの意図

ボウイのような神がかった歌手を輩出したBrixtonでは、2005年になると冒頭に紹介したキリスト教徒の黒人男性が「祈りを忘れた者たち…」と、意味深な言葉を発していたわけです。当時、男性はジェントリフィケーションのさざ波を感じ取り、信心をともにしていた人々の集うコミュニティの喪失や、街からパワーや魂が抜けて行くように感じていたのかもしれません。

政治、文化、経済などの各側面から眺めてみても、ジェントリフィケーションは何度も繰り返されています。歴史的に俯瞰してみると、コンスタンティノープルやビザンチウムなどと名前を変えた現イスタンブールもひとつの例です。生物の世代交代に当てはめてみると、寿命というシステムが肉体を滅して、生存可能な者が次世代を生み出す「生物の進化」と同じことのようにも思えます。

ロンドン周辺に点在するBrixtonのようなジェントリフィケーションの典型とも言える街角にたたずむと、「自分と宇宙との関係を見極めろ。そして、未来を思い描いて行動せよ」と、ボウイに進化の在り方を問われているような気がしてきます。もちろん、気のせいかもしれませんが…。

Text&Photo by M.Kinoshita

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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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