Little Tales of British Life イギリスの茄子の行方 EU離脱を被る在英小市民の想い

2020.01.07

1980年代のイギリスで新生活が始まって数か月経ったころ、思いがけず嬉しい発見をしました。ほぼ毎日立ち寄っていた最寄りの量販店で茄子を見つけたのです。初めて見るイギリスの茄子(ナス)の大きさには我が目を疑いました。実のところ、イギリス産ではなく、スペイン産の大振りな輸入茄子(最大直径8㎝x長さ30㎝)が、野菜コーナーにゴロンとひとつだけ売れ残っていたのです。手を出したいのだけれど、よく見るとあちこちへこんで傷んでいるだけでなく、少ししなびています。日本なら売り物にならないか、安売りコーナーで半額以下になるべき品質。イギリスでは茄子が店頭に出回ること自体がまだ珍しい時代でしたし、希少且つ高価だったので、買おうかな、どうしようかな、としばらく見つめていると、白人の女性に声を掛けられました。「アナタ以外に誰も買わないわよ。3日前からずっとそこに置いてあるもの」

その言葉を聞いた途端に、それまでの人生(まだ20代でした)では味わったことのない不思議な孤独感が押し寄せてきました。「あ、俺ってひとりじゃん。イギリスに居る日本人なんて究極のマイノリティじゃんか」と、しなびた野菜ばかりが並ぶ売り場の前で独り言(ご)ちていました。
ブレグジット 昨年ケント州のトンブリッジに行くとハイストリートでローカルなレファレンダムが行われていました。2016年はどちらに投票し、2019年9月の現在はどちらに投票するか?この地域は残存派が主勢ですので、離脱派自体が少数派なのですが、離脱派から残存派に移行する人は意外に少ないのですね。EUとの合意無き離脱が意味することは、世界各国との合意も一から取り付けるという膨大な事務処理が待っていることを知らないとは思えないのですが…。

イギリスで茄子を食べるのは外国人の自分くらいのものなのだろう、と気付いた途端に「日本人の俺はこんなところで、何をしているんだろう」と、とても寂しい気分になったのです。当時住んでいた地域と言えば、ロンドン中心部から15㌔ほど南下した住宅街で、有色人種を見かけることなどほとんどありません。伝統、慣習、そして政治的に保守的なイギリスの中流層が大勢を占めていました。その売れ残っていたひとつの茄子は、あたかも白人社会では一点の有色人種に過ぎない自分と同類のように感じられたのです。

しかしながら、当時はイギリス人社会に溶け込んで行こうという思いが強かったせいか、わざわざ孤独を感じることもなかろうと考え直して、同胞のように思われたその茄子を置き去りにしました。そして、その茄子はそれから2日後には野菜棚から消えていました。

ちなみに、当方のイギリス人社会への同化の気概は、一年以内に「無理だ」という居直りへと転化し、在英邦人として自分なりに自分らしくあるべきであるという自覚を持つに至りました。そして、世界史は得意なのに、日本史を知らないことに気付き、イギリスにかぶれるどころか、日本人としての自覚が湧いてくると、その頃から司馬遼太郎や池波正太郎の本を読み始めました。池波正太郎の小説には茄子料理も紹介されています。

茄子が伝えてくれたグローバリズム

80年代の終わりから90年代に掛けて、EUの経済統合が段階的に進められていく渦中にあり、マーガレット・サッチャー首相の経済政策の効果が消費生活面でも明らかになってきた頃のこと。量販店の野菜売り場からは季節感が消えるほど、新鮮な野菜が増え始めました。もちろん、茄子もそのひとつで、スペイン産、トルコ産、アフリカ産などが出回り始め、季節や生産地によって異なる育成方法や味の違いまで分かるようになってきました。茄子の登場など、イギリスの量販店が陳列する食材が増えた理由は、EU内の経済統合の元で推進された自由貿易協定、関税同盟、そして共同市場が正常に展開した成果でした。
ドイツからイギリスに来たポルシェのナンバープレートにはEUのロゴが付いています。もちろん、イギリスの車にもEUロゴは付いています。EUのロゴを失うと、入国手続きはどうなるのかな?

生産地はEU域内、あるいはアフリカや中東などEU外でしたが、実際のトレーディングを行う企業はオランダやイタリアだったりしますので、結局EU国からの産直ビジネスと同じ関税の扱いになるらしく、新たな配送システムが確立されたおかげで、バラエティに富んだ生鮮食材が安価に調達されることになり、90年代中ごろまでには孤独を感じさせる哀れな茄子を見掛けることも無くなりました。

TescoやSainsburyなどの量販店で茄子を大量に購入する在英のインド系や中東系のご婦人たちに「どんな料理をするの?」と、わざわざ声を掛けてレシピを質問したり、顔見知りになって何らかの情報を共有したり、マイノリティ同士で共通の経験や問題を立ち話したりなど、アジア系、エスニック系の食材も増えてきたせいか、イギリスの量販店は次第に使い心地がよくなって来ました。しなびた野菜を平然と売っていた露店の対応が良くなって来たのも90年代以降からだったと思います。

段階を追って経済統合が進むうちに生鮮食品や花卉類などの産直品が増えて行くと、イギリス国内の公営市場にも大きな変化を及ぼしました。ニューコベントガーデンのような卸売りや問屋は、映画マイフェアレディで観られたような盛況の恩恵が受けられない状況に追い込まれます。たとえば、幽霊船フライング・ダッチマンの再来と例えられて、イギリスの流通業者を脅かしたオランダの商社は、1990年代後半から卸や問屋を通さずに良好な品質の商品を安価でイギリスの量販店に産地から直接に提供しています。実際、物理的に近い欧州各国間の産直は容易です。その代わり、量販店の影響で小売業が衰退すると公営市場から卸業者や問屋が撤退し、近年になるとロンドン・バラ―・マーケットのように観光化された模擬店街に変貌するところも現れました。また、ユーロトンネルが開通して以来、大陸から渡って来たローリーやダンプトラックの交通量が増えて、環状高速道路M25の劣化と償却は加速し、事故も増えて渋滞が常態化しています。
先般、ウィーンに行った時、空港に向かうバスの車窓から。オーストリアからはハンガリーのブタペストもスロヴァキアのブラティスラーヴァもすぐ近くです。でも、EU離脱後のイギリス人や長期滞在許可を持つ在英邦人が旅行する時、EU内の国境管理はどうなるのか。ちょいと前まで、考える必要のなかったことです。

2000年代ともなると、当方の周囲では、子どもたちの学校関係が付き合いの中心となり、しなびた茄子が売られていた時代のような保守一辺倒の島国ではなくなったイギリスでは、白人だけが中心の社会でなくなりつつある気がしていました。特に自分の子どもたちを自費で私学のパブリックスクールに行かせる親御さんたちですから、わりと裕福で、教育度も高く、グローバリズムや世相への対処にも柔軟なので、われら在英外国人をお茶会やBall(ローカルな舞踏会。実際は簡易正装のパーティ)で受け容れてくれる寛容な人々であったと思います。当方の子らは幸運にも奨学生枠として、その種のスクールへの仲間入りができましたが、校内でも我が家の貧しさは際立っていました。まだその親御さんたちとの付き合いはまだ続いていますし、少なくとも当方を充分に現地化した在英邦人として扱ってくれます。当方の独特な経験、受け答え、そして話題を楽しんでくれたり、クイズ大会でポイントゲッターになったりすることも交友関係に影響したかもしれませんが、人種や民族を違えていても、子どもたちの文化を共有し合っていたこともあって、快適にイギリス生活を営めているという自覚を持っていました。
ヒースロー空港 入管の対応はもちろん、表示も変わるのでしょうねえ。

しかし、イギリス全体を俯瞰すると事情は複雑です。昨今の世論や先日の総選挙の結果を見ると、イギリス人全員が同じ寛容性や柔軟性を持つわけではないのだな、ということがよく判ります。グローバリズムとは、仕方のないことなのか、あるいは自国第一主義のような思想で跳ねつけるアンチテーゼなのか、はたまた積極的に受け容れて新しい生き方を見つける機会なのか、人によっては、経済生活や生活信条にも影響するので、その対応の仕方が異なっていて、隣人の意見を尋ねるのも躊躇されます。果たしてイギリスという国は、マイノリティの外国人である自分が、日常の居場所として落ち着くのに相応しいところなのかどうかと考えさせられることも増えて来ました。もちろん、行儀のよい日本人など、一時的な海外旅行者や留学生を受け容れることはイギリス人もやぶさかではないはずです。

帝国の市場と茄子の供給

ところで、拙著「イギリス大使館の地下室から」の主要テーマのひとつは、この150年間のイギリスの縮小です。当方の読んだ中高歴史の教科書には、ビクトリア女王の治世の頃に大英帝国は最大の繁栄期を迎えたと書いてあったと記憶していますが、実際には帝国主義政策という名の軍事力を伴う植民地政策でその領土を広げ過ぎたイギリスは、クリミア戦争や中国のアヘン戦争などで帝国の限界を感じ始めます。

第一次大戦後は債権国から債務国へと転落すると、借金先のアメリカと手を組んで、債務の返済方法を確保するために中国利権を争う日本を敵国に仕立てあげます。さらに、第二次大戦後は各植民地の独立などによって植民地経済政策が破綻すると、イギリスは世界から多くの原産国と市場を失い、母国を大英帝国と名乗る人も急速に減少します。

ちなみに、日本の外務省が発行する在日外交官身分証明書を例に取れば、戦前は「大英帝国」と記載されていましたが、戦後は「連合王国」、そして2010年頃からは「在本邦英国大使館」と変化しています。身分証の表記にさえイギリスの縮小傾向が感じられます。

EUに加盟してからでも、イギリスは独自通貨を維持するなど個性を失わずにEUと健全な関係を保ってきたつもりでしたが、間接民主制の運用を誤ったキャメロン首相のギャンブルとも言うべき国民投票にイギリス国民は付き合わされることになったわけです。もちろん、その時点での最善を尽くしてきた結果が歴史として残るのですが、その結果に対する評価は後々変化していきます。キャメロン氏の判断が意外な評価を受ける時代が来ることもあるのかもしれません。
トランプストリート 「Johnson streetに代えろ」と揶揄する人もいます。彼に人気があるのか、無いのか分からなくなります。Boris Johnson氏の名誉のために付け加えますが、かの偉大な首相Winston Churchillも入閣当初から問題児として扱われ、首相になった時のChurchillは「時代の捨て石となるだろう」と揶揄されていました。さて、Boris氏のお手並みは?

やがてEU離脱の移行期間が終われば、当方がイギリスで食べる輸入茄子にも影響するわけです。EU離脱後、スペインなどEU内で収穫された茄子には関税が課せられるでしょう。また、アフリカ諸国など非EU国との直接輸入でも関税が掛かるもしれません。それぞれの国々と直接交渉して、EU参加国時代以上に好い結果が得られるのかもしれませんが、成り行きを見守るしかありません。

茄子に例えて言えば、生産地は変わらなくても、流通する経路や物量、検疫など流通するための法律などのシステムが変わるのです。離脱の移行期間中には、そのシステム変更のためにざっくりと3つの大きな作業が行われます。①EUに支えられていたシステムを停止する作業、②そのシステムをイギリス自らが作り直す作業とEUとの新たな窓口を作る作業、そして③EU以外の世界各国との新たなやり取りを作り直す作業です。外交、経済、商務、投資などあらゆる分野にマンパワーを投入します。つまり、現状でさえ多過ぎるイギリスの公務員をさらに増やすことで、その作業は可能になるのです。公務員を支える財源は充分にあるのでしょうか。ちなみに、イギリスの公務員は安定職ではありません。
ビックベン ビッグベンも経年疲労の影響でオーバーホールの時期を迎えました。17世紀から世界の模範として機能したウェストミンスター・システムもオーバーホールの時期でしょうか? 問題はイギリスだけにあるのではなく、重厚長大な連合構想のひとつであるEUの体制にも世界の実情とは合わない、且つ共有できない状況が生み出されているためです。我々は政治と行政の両面で新しいシステムを築き直すステージに立たされています。

Brexitをきっかけに茄子作りを学ぶ

2019年にイギリス大使館を退職した職員さんの中に「大使館を離れてしまえば、私にはEU離脱は関係ありませんから」とおっしゃる方がいました。なるほど、だらだらと続くEU離脱の手続きにウンザリしていたのは、イギリス国民だけではありませんでした。EU離脱に関わらなくて済む人生は羨ましいです。

EU離脱は当方の茄子だけでなく、生活全体に深く関わっています。去る12月12日に行われた総選挙の結果が出た直後の為替市場では活況を受けてポンドとユーロは上昇していましたが、数日後の2019年12月18日にボリス・ジョンソン首相率いる政府が「移行期間延長の禁止」を法令化した途端、ポンドは大幅に下落しました。不動産もその価値を下げ始めています。その下げ具合を見た拙息子は家を買う機会を伺っています。ファーストバイ(最初の購入)の彼には安く買えるチャンスであっても、当方の持ち家の資産価値は下降していくのです。また、茄子の確保に限って言えば、将来のイギリス生活では、温室で自家栽培の茄子を考えてみるべきでしょうか。
ブレグジット このレストランチェーンの経営者はBrexit支持者です。しかも、トランプ大統領のファンで、差別的な言動も含めて、分断を煽る政治的な発言をすることで有名です。コスト的にも食事の内容も評価は上々ですが、その経営者を支持したくないからという理由でこのレストランを使わないイギリス人も多いと聞きます。しかし、このチェーン店はどこに行っても連日満員です。利用者はBrexit支持者と政治に興味を持たない人たちでしょうか。そして、この店から出る残飯を見る限り、社会の貧困を正視していないのではないかという気がします。

ところが、年に何回かイギリスに戻るたびに思うことは、「これほどの活況は日本にはないな」ということ。つまり、イギリスの経済状態は日本よりもだいぶイイと思います。イギリスに旅行した日本人がその物価高に驚いていますが、それは日本のデフレが続いているからです。日本の経済の方がオカシイのです。イギリスではその物価でも生活できるほど給与水準も高く、経済の循環が効率的なわけです。国民投票の行われた2016年以前から消費動向も悪くありません。先日も数社の総研にお勤めの方々と話す機会もありましたが、彼らの分析ではイギリスはEUを離脱しても自らを支える経済的な体力があるので、短期的にドタバタするだろうが、長期的な見通しは暗くないとのことでした。

当方の場合はなりゆきで、将来も第二の故郷イギリスに住まう可能性が高いので、EU離脱後のイギリス社会に関わって行かざるを得ません。どんな社会になろうとも、生きていける自信はありますが、無策ではありません。2016年以来続く離脱論争の間に将来を見つめて来た在英者であれば誰でも、いろいろな可能性を想定し、ある程度の準備を進めています。
アダム・スミス アダム・スミスの本来の仕事は道徳哲学の先生です。倫理的な観点から世界経済の行方を示唆した本が国富論です。利己的な活動と共感や抑止など他者による基準との関係を説く道徳感情論に基づいて経済活動を推進すべきとしています。現代の消費社会でその観点が問われることは稀です。先日アフガニスタンでお亡くなりなった、お医者様の中村哲さんが救済としての医療活動以前に、人々が病気にならない生活環境を作り出すために貧困の撲滅を目指したことは、その倫理的な観点を優先したことに他なりません。

ちなみに、EU離脱の将来に注目される方はジェトロが作成している以下のファイルが参考になると思います。企業動向が中心ですが、個々の生活との関わりも見つけられます。どうやら、EU離脱とは、ヒトの命を取るほどのものではなさそうです。ただ、イギリスという国が縮小して、身の丈にあったサイズになる過程にあるのかなと思います。

→ Brexitの最新動向と企業活動への影響

Text&Photo by M.Kinoshita

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マック 木下

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ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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