ロンドン・ターミナル駅シリーズ その4|まぼろしの駅「London Broad Street」とシティの駅「Liverpool Street」 | BRITISH MADE

Little Tales of British Life ロンドン・ターミナル駅シリーズ その4|まぼろしの駅「London Broad Street」とシティの駅「Liverpool Street」

2022.09.06

エリザベスラインの開業が注目されていますが、その全線を見ると、当方の生活圏とはあまり関係ないなあと思いながら、路線図を見てみると、地下鉄、オーバーグラウンド、ナショナルレイル、そして廃線跡の復活・再活性化などロンドンの鉄道インフラの新旧を効率的に集約した新しい交通網であることに気づきました。そして、このラインが誕生する一方で、当方の視線と興味は、すでに見えなくなっているもの、すなわち「古き無きもの」へと向かってしまいました。今回は「まぼろしぃ~」の駅について述べたいと思います。「もはや存在しない無形のものを語る」という挑戦でもあります。

消えてしまうこともあるロンドンのシンボル

ロンドンの街は長い年月の間に大きく変化・発展しています。同時に、かつては有名だったモノでも跡形もなく消えてしまうこともあるのです。例えば、1986年の大ロンドン議会(グレーター・ロンドン・カウンシル)の閉鎖。 建物自体は残りましたが、議会が閉鎖することなど、にわかには信じられませんでした。当時、ロンドン市長だった労働党のケン・リヴィングストンと、保守党のマーガレット・サッチャー首相との間で思想的な対立が生じたことと、ロンドン全体の行政組織が二重構造になっていたり、責任のなすりつけ合いなど無責任体制が続いたりなど、いくつかの機能不全が議会閉鎖の原因でした。

そして、バブル時代になると、大阪の老舗不動産屋が大ロンドン議会の庁舎を買い取ったことで、金にモノをいわす日本人の評判は落ち、世界の金回り事情の縮図も露呈しました。資本家の動静によって、建物の役割も景観もどんどん変化します。19世紀にイギリス貴族のステータスを買い取ったアメリカ資本を皮切りに、オイルマネーを蓄えたアラブ諸国、バブル景気だった日本、産業が活性化したBRICS、そして日本のGDPを追い抜いた中国へと、お金のある国は短期間にシフトし、ロンドンをはじめとするイギリス国内の不動産を買い付けることで、固定収入を確保し、その経済的な権威と名誉を自ら確かめては、自己満足に浸ることが、歴代のお金持ちたちの一つのステータスになっています。ちなみに、大ロンドン議会は大ロンドン庁(グレーター・ロンドン・オーソリティ)として2000年に復活し、現在の市長はサディク・カーン氏です。

また、最近のロンドンでの体験と言えば、地下鉄スローン・スクエア駅近くでアンティークの隆盛を誇っていたアンティクウィリアスの閉店。古代遺跡から出土された鋳造品のアンティークから、19世紀のエルメス製品など高級なヴィンテージものも含めて、多くのカテゴリーを取り扱う常設骨董店の集合体でしたが、こちらの閉鎖は近年大きなニュースなりました。閉鎖の理由は、ネットの普及によって、アンティークやヴィンテージの市場と売り方が変質したからと聞き及びました。ボンドストリート近くのGrays Antique Centreなど他の常設骨董店でも、足を運ぶたびに何かしらの変化を目にします。それもこれも、複雑な現代都市の様相の変化の一部にすぎないのでしょうか。


1985年から37年後の風景。おおよそ、この場所にブロード・ストリート駅がありました。

さて、今日の話は、19世紀中ごろから20世紀の中ごろまでテムズ川以北のイングランドにはとても重要だった、ある鉄道ターミナル駅の話です。かつてはユーストン駅やパディントン駅に匹敵するほど有名でしたが、現在はオフィスビルしか残っていません。ロンドンにそんなところがあるの?と思われた方も多いことでしょう。キングス・クロス駅と並ぶほどの知名度を誇りながら、今ではすっかり姿を消してしまったロンドンのターミナル駅、その名はブロード・ストリート駅です。

ブロード・ストリート駅は、リバプール・ストリート駅に隣接し、1865年から1986年までの120年間NLR(ノース・ロンドン・レイルウェイ)などの主要なターミナル駅として、主にロンドン近郊のローカル線に接続していましたが、地下鉄など他の交通機関との競争に敗れ、廃止に至った駅なのです。


リバプール・ストリート駅のお隣りさん

ブロード・ストリート駅に隣接するリバプール・ストリート駅の北側。列車は地下から出発するように見えます

ロンドンのターミナル駅シリーズを書くために、さまざまな文献で事実確認をしていると、随所で出てきた駅名がブロード・ストリート。このシリーズで皆さまに紹介すべきターミナル駅のひとつではないかと思い立ちました。手持ちのLondon Encyclopaediaの中にも「現存しないロンドンのアイコン(象徴)」のひとつとして掲載されています。当方も「そういえば、聞いたことは・・・あるな」と思ったものの、何も思い浮かばないので、今年61歳になる家人(イギリス人)に聞いてみると、「私が子どものころには使ったことがあるよ。 確か、1980年代の終わりに無くなった駅だと思う」とのこと。しかし、どんな駅であったかはまったく覚えていないそうです。80年代にイギリス生活が始まったばかりの当方は、駅が廃止になるというニュースを耳にした記憶があるくらいで、まだイギリスとの関係が薄かったせいか、当時の出来事が自分と関連付けられていませんでした。

しかも、ブロード・ストリート駅とはリバプール・ストリート駅の一部であるとか、吸収合併されて再編成された駅であるとか、イギリス人の中でも認識が間違っていたり、異なっていたり…。そのリバプール・ストリート駅と言えば、ノーフォーク、サフォーク、ケンブリッジなどイーストアングリア地方とロンドンを繋ぐグレート・イースタン鉄道(1923年にロンドン&ノースウェスト鉄道が引き継ぐ)のシティの中に位置するターミナル駅として1874年に開業していて、ブロード・ストリート駅とは路線、方向、そしてその役割もまったく異なります。現在のリバプール・ストリート駅は19プラットフォームでグレーターアングリアなどに向かうナショナルレイルが運行されているほかに、エリザベスライン、オーバーグラウンド、そしてロンドン地下鉄にも接続する大規模駅です。


リバプール・ストリート駅構内を北側から臨む。天井の高さは蒸気機関の時代を彷彿とさせます。列車の進行方向は手前です。改札などの駅舎はこの建物の反対側。

ところで、当方は、この古びたリバプール・ストリートの駅舎内で、ぼんやり過ごすことを楽しみにしています。サンドイッチなどの昼食を買ってきては、古くから備えられた駅構内の観客席のような待合で、構内の建築を堪能するとともに、人間ウォッチングをしながら食事をする、いわば、ロンドン散策の休憩地点です。また、戦時中にドイツの占領下で社会問題となったユダヤ人孤児たちのモニュメントなど、歴史的なアイコンの塊(かたまり)のような駅です。消えてしまったブロード・ストリート駅とは対照的な存在。やはり、ブロード・ストリート駅とリバプール・ストリート駅は、経営的にも、歴史的にも互いに異なった存在だったようです。

リバプール・ストリート駅の改札側。右側階段を上がると、ひな壇のような段々があって、誰でも自由に座れるようになっています。この場所から、ステージのような駅構内を行き交う人々を眺めながら、思い思いに過ごしていたり、食事をしていたり…。当方もロンドン散歩の休憩所、兼people watching(人間観察)をする場所です。注意すべき名物は、置き引きと鳩の落とし物。


ブロード・ストリート駅の生い立ち

1980年代中頃、取り壊し直前のブロード・ストリート駅1980年代中頃、取り壊し直前のブロード・ストリート駅。パーキングメーターが時代をもの語っています。

さて、ブロード・ストリート駅とその路線は1865年(慶応元年)に始まります。北ロンドン鉄道(NLR)とロンドン・ノースウェスタン鉄道(LNWR)の共同事業として、よりシティに近い場所に貨物用の駅を作るために建設され、ロンドン北部郊外と、東インド埠頭、西インド埠頭など現在で言うドックランドへと繋がっていました。

完成した駅舎には、7つのプラットフォームと3つの路線が引かれていて、白いサフォーク煉瓦とピーターヘッド花崗岩で造られた全長約76メートルの堂々とした建物で、23メートルの時計台が大きなセンターピースとなっていたそうです。

1899年の鉄道マップ ロンドン1899年の鉄道マップでは、赤丸内にブロード・ストリート駅がリバプール・ストリート駅に併設されているように見えます。

ブロード・ストリート駅の開発はすぐに成果を生み、路線の交通量は短期間のうちに倍増します。やがて、1874年には4番目のアプローチ線が、1891年にはさらに(8番目の)プラットフォームが追加され、9番目のプラットフォームは1913年に完成。

20世紀初頭のピーク時には、リバプール・ストリート駅、ヴィクトリア駅に次いでブロード・ストリート駅はロンドンで3番目に利用客の多い駅へと発展します。この頃のブロード・ストリート駅では、ラッシュアワー時には1分間に1本以上の列車が発着し、1902年には2700万人以上の乗客が利用していました。(2018年、新宿駅は年間約10億人)当時としては大きな数字であっただろうと思われます。

しかし、1960年代末には貨物部門が廃止され、1986年には駅そのものが閉鎖。その後、駅舎はオフィスと商業施設の複合施設であるブロードゲートに取って代わられると、かつて東西に走っていた主要ルートは、しばらくの間放置されましたが、現在ではロンドン・オーバーグラウンドのノース・ロンドン・レイルウェイ(NLR)の一部となっています。その他のNLRの路線は、後にドックランズ・ライト・レイルウェイに並走するロンドン・オーバーグラウンドのイースト・ロンドン・ラインの一部として復活。今でこそ、運河やテムズ川の水面の照り返しを楽しめる爽快な路線ですが、30年以上前まで過去をさかのぼると、灰色の倉庫街の中の朽ちた廃線として落ちぶれていた時期もあるのです。


ブロード・ストリート駅がロンドンを支えた時代とその終焉

ブロード・ストリート駅の構内はブロードゲートサークルという広場と商業施設に替わっていますブロード・ストリート駅の構内はブロードゲートサークルという広場と商業施設に替わっています。

1910年2月1日には、ブロード・ストリート駅から地方都市のコヴェントリー、バーミンガム、ウォルバーハンプトンまで「シティ・トゥ・シティ」の運行が導入され、全国的に重要なターミナル駅へと発展します。しかし、第一次世界大戦の影響で1915年にこれらの運行は廃止。

おまけに、ロンドン中心部のバスや路面電車の運行が拡大し、交通量の減少に見舞われます。やがて、第一次大戦からの回復が見られた1918年以降に少しだけ状況が好転。他社線との競争に打ち勝つために路線の電化が決定され、第二次世界大戦中は、重要な運行路線として位置づけられました。しかし、敵国ドイツからの空襲で大きな被害を受け、戦時中から徐々にロンドン近郊路線の多くが撤退し、その後復活することはありませんでした。ただ、1950年代には少し明るい兆しが見えていた時期もあります。キングス・クロス駅からケンブリッジ行きの観光需要が伸びたために、その余剰顧客をカバーする駅として運用されるようになりました。

しかし、余剰顧客をカバーするだけでは収入は伸びません。改修に投資できないままの駅舎に1956年からかげりが見えてきます。プラットフォーム入口にあるコンコースの脇で、無秩序に切符を販売するようになると、駅は次第に荒廃し、運行サービスもどんどん低下します。維持修繕費用も不足していたため、1967年には危険な状態になった屋根の大部分を撤去。野ざらし部分の多いターミナルとなってしまいました。1976年には老朽化が進み、使われなくなったプラットフォームの間にはペンペン草が生え、貨物の下ろし場のほとんどは、線路をアスファルトで埋められて、自動車の駐車場へと・・・。そして、駅の取り壊しは1985年に始まったのでした。サッチャー政権が登場するまでのイギリスの斜陽時代を象徴する姿をさらしたうえに、その姿を消してしまったのです。当時のイギリスはどこも似たような状況でした。リージェント・ストリートでも閉店した数々の店頭のウィンドウには古新聞が貼られたまま数年間放置されるなど退廃的な光景が見られたのです。

一方で、有名な話も残されています。1984年、元ビートルズのポール・マッカートニーは『Give My Regards to Broad Street』というアルバムと映画を制作しています。映画では、彼が駅に入り、一人ベンチに座っているシーンが登場します。

この駅は最終的に完全に取り壊され、サッチャー政権の終わりごろから外国資本の導入が進み、ショッピングとオフィスの複合施設に取って代わられました。また、旧線の多くは残り、キングスランド高架橋など、オーバーグラウンド・サービスの一部として再利用されています。つまり、かつてにぎわった路線の一部はエリザベスラインなどに組み込まれて今でも多く利用されていて、その全線を繋げれば、ターミナル駅だったロンドン・ブロード・ストリート駅に通じるわけです。120年にわたりロンドンで活躍したこの偉大な駅を思い起こさせる路線は、いくつかの画像で示したように、いまだに利用されているので、皆さまもロンドンに行けば、すぐにその路線を体感できるわけです。そして、駅舎のあったブロードゲート広場は、かつての隆盛を想像する場所として歴史鉄道マニアの聖地として残っています。

ロンドン ホクストン駅このHoxton駅は全長2マイルに及ぶキングスランド高架橋の途中に造られた駅のひとつ。この高架橋はブロード・ストリート駅から北に向けた路線として1860年に敷設され、1985年にお役御免となり、その後25年間放置されます。2010年になってOvergroundとして利用が再開。この高架橋を走る車窓の景色から、無きブロード・ストリート駅を偲ぼうという多くのTrain spotters(英国版鉄ちゃん)たちの聖地になっています。興味ある方にはShoreditch High street駅からDalston Junction駅行きに乗車することをお薦めします。


今回は、鉄橋、駅舎、鉄道関連素材など、鉄道のインフラストラクチャ―が好きな当方(インフラ鉄)の鉄道趣味に基づいて、かなりマニアックな内容になってしまいましたが、まぼろしのロンドン・ターミナル駅について語らせて頂きました。「もはや存在しないものを語る」という挑戦でしたが、皆さまに少しでも何かが伝わればという思いでしたためてみました。

去る3月の2年ぶりの渡英では、ブロード・ストリート駅跡とリバプール・ストリート駅の界隈を歩きまわってみましたので、本稿と合わせて、その周辺画像をお楽しみ頂ければ幸いです。次回はロンドンの北の3ターミナル駅について語りたいと思います。


リバプール・ストリート駅の前には、Hope Squareがあります。戦時中に一万人の孤児(主にユダヤ人)が、欧州でのナチスによる迫害から避難してロンドンに到達した記念像。孤児の受け入れは人道主義に基づいて、当時の首相ネヴィル・チェンバレンの英断によって行われたとのこと。


Text by M.Kinoshita


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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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