Short story of tea 紅茶の記念日 | BRITISH MADE

Short story of tea 紅茶の記念日

2014.11.26

紅茶の日は、1983年(昭和58年)に日本紅茶協会により定められました。

ハロウィンが終わり、街はもうクリスマスに向けての装飾があふれてにぎにぎしい雰囲気が漂う今日この頃ですが、この記事を書いている今日は11月12日、「洋服記念日」であったり「良い皮膚の日」だったりするようです。毎日なにかしらの記念日だったりするんですね。 ところで、もう過ぎてしまいましたが11月といえば11月1日は「紅茶の日」だったのです。

紅茶の箱ラベンハムより届いた、ラベンハム村があるサフォーク州「BUTTERWORTH&SON」の紅茶。Suffolk Maid

この紅茶の日は、1983年(昭和58年)に日本紅茶協会により定められました。その由来は、1791年(寛政3年)の11月1日に、伊勢の国(現・三重県)出身の船頭・大黒屋光太夫という人物が、ロシアの女帝・エカテリーナ2世のお茶会に招かれ、日本人として初めて本格的な紅茶を飲んだという逸話からきています。しかし、なぜ日本人の船頭が、遠く離れたロシア皇帝のお茶会に招かれることになったのでしょうか。その大黒屋光太夫の生涯を少しひもといてみることにしましょう。

江戸時代-1782年(天明2年)12月9日のこと、伊勢の国の白子港(現・三重県鈴鹿市)から、廻船・神昌丸が出港しました。船頭は、井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』の主人公としても知られる大黒屋光太夫(1751-1828)。船員は総勢17名、米や木綿などを積み江戸に向かいました。
しかし出港から4日後、神昌丸は遠州灘で嵐に見舞われ遭難してしまいます。光太夫らは約7ヶ月もの間漂流を続け、ようやくロシア領・アレウト(現・アリューシャン)列島の小さな島、アムチトカに上陸。厳しい寒さの中、多くの仲間を失いながらもこの島で約4年を過ごし、その後、帰国許可を求めるためシベリアをまさに「横断」します。カムチャッカから、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)シベリアの中心都市イルクーツクに至ります。



道中、カムチャツカでジャン・レセップス (フランス人探検家。スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父で、後にレセップスが著した旅行記には光太夫についての記述があります。)に会い、イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会う。キリルを始めとする協力者に恵まれ、1791年2月(寛政3年)、キリルに随行する形で首都サンクトペテルブルクへ到着します。
この際の総移動距離は1万kmを超え、アムチトカ漂着から実に8年もの歳月が過ぎていました。その後光太夫等の並々ならぬ苦労と努力、そしてキリルらの尽力により、遂にツァールスコエ・セローにて女帝エカチェリーナ2世(1729-1796)に謁見がかなうことになりました。 彼らの境遇に深く同情した皇帝は帰国許可を与えます。

そして翌年、光太夫らは日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と3人でオホーツク港から根室へ上陸、帰国を果たしたが、小市はこの地で死亡、残る2人が江戸へ送られることとなります。
光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけでした。

帰国後は、11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録は、医師で蘭学者である桂川甫周が「漂民御覧之記」としてまとめ、多くの写本がのこされました。また甫周は、光太夫の口述と「ゼオガラヒ」という地理学書をもとにして「北槎聞略」を編纂し、海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与することとなりました。

その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に居宅をもらって生涯を暮らしました。ここで光太夫は新たに妻も迎えたそうです。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ており、昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷の伊勢へも一度帰国を許されていることも確認されています。寛政7年(1795年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っていたようです。

さて、皇帝への謁見から帰国までの間、光太夫はロシア皇太子や貴族、政府高官から大変優遇されました。様々な招待を受け、当時のロシア文化、社会を体験しています。こうしたことから、ペテルブルクを離れる直前の1791年11月1日、光太夫はエカテリーナ2世のお茶会に招かれ、日本人として初めて、本格的な欧風紅茶(ティー・ウィズ・ミルク)を楽しんだといわれています。このことから、日本紅茶協会は、この日を日本における「紅茶の日」と定めたのです。

今月11月には、決して帰国をあきらめず、仲間を導きシベリアを横断した奮闘ぶりと、ロシア滞在中想像もつかない苦難を味わった光太夫のエピソードに思いをはせながら紅茶をいれてみませんか? そしてロシアの紅茶の作法(*1)にのっとってジャムをスプーンですくって舐めながら紅茶を飲んでみるのもきっと面白いと思います。


ミックスジャムと紅茶Ntオリジナルの自家製「柿と苺のミックスジャム」と紅茶
ジャムこちらはママレード発祥の地で、昔ながらの製法を守り続ける英国「MACKAYS」のジャム。

*1:ーロシアでは寒い地方で紅茶にジャムを入れると茶の温度が下がり、体を温めるのに適さなくなってしまう事が理由の一つだと言われています。日本において一般に「ロシアン・ティー」と言えば、紅茶に直接ジャムを加えた物とされているが、これはウクライナやポーランドの習慣だそうです。 またカレリア地方などの、辺境地域では、故意に紅茶の受け皿に紅茶をこぼし、口に予め角砂糖等を含んだ上で、受け皿から紅茶を飲み干す習慣もあるようです。



2014.11.26
Text by T.Nogami

plofile
野上富巨

野上富巨

紅茶のカフェ「nt(ニト)」店主。幼い頃から紅茶が好きで、様々な飲食業を経て2013年3月紅茶のカフェ「nt(ニト)」を東京西荻窪で開業。日本紅茶協会認定ティーアドバイザー。

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