
最も好きな季節である秋か冬にヨーロッパを旅することがここ数年の習慣だ。英国に限るとイングランド、スコットランド、ウェールズとこれまで順当に旅をしてきた。残りの北アイルランドを訪れれば、晴れて連合王国を制覇することになる。その矢先に発生したパンデミックによって、このささやかな野望はあえなく頓挫してしまった。ようやく収束したはいいものの、開放的な気分を味わいたい一心から、ここ数年はイタリアと南ヨーロッパを周遊していた。さて、今年はどこへ行こうかと地図と睨めっこをしていたときに、ふと当初の野望を思い出した。積年の思いを成就させるときがきた。「よし、北アイルランドへ行こう。」そうして今回の旅は始まった。
2025年師走、アイルランドはダブリン空港に到着した。なぜダブリンかというと、本来北アイルランドの首都ベルファストへ向かいたかったが、日本からベルファストへ乗り継げる便はブリティッシュエアウェイズしかない。のっけから話が横道にそれるが、じつはここ数年イスタンブールに陶酔してしまっている。そんな理由もあってヨーロッパへ出入国する際、必ずイスタンブールでストップオーバーしている。しかしながら、日本からベルファストに向かう便がターキッシュエアラインズにはない。そこで就航するアイルランドへ入国し、陸路で北アイルランドへ入国することにしたのだ。せっかくなので、今回は英国と縁の深いアイルランドを前哨戦にしたい。
渡航するにあたり、アイルランドについて友人に話を聞いてみたが、驚くほど情報がない。訪れた人はおろか、アイルランド島が2つの国に割れていることを知らぬ人さえいたほど知名度はなかった。昨年のマルタの例に漏れず、ああ、これはきっと面白い旅になるなとほくそ笑んで成田空港を後にした。
アイルランドはヨーロッパの西の果て、極寒の国と聞いていたので、ずいぶん防寒着を用意した。ダブリンに到着した22時の気温は3℃だった。氷上の湖で三日三晩鰙釣りをしたり、真冬の荒波の中漁船で行う無茶苦茶な撮影を経験したおかげで、ずいぶんと心身が鍛えられたのだろう。元来耐寒性があるのか、あまり寒さを感じなかった。小雨が降る中、客足がまばらな空港発のエアポートバスはダブリン中心地へと進んでいく。ダブリンは灰色の建築が軒を連ね、景観を損なうような高層ビル群が見当たらない。街灯が少ないせいか、クリスマスを目前に控える豪奢なイルミネーションがよく映える。その前を路面電車ルアスやグリーンのダブルデッカーがのんびり通過していく。バスから見下ろす街並みを見ながらようやく旅が始まったことを実感した。

アイルランドといえば真っ先に思い浮かぶのが文学だ。ジェイムズ・ジョイス、オスカー・ワイルド、ブラム・ストーカーといった世界的に有名な作家からW.B.イェイツ、バーナード・ショー、サミュエル・ベケットなどノーベル文学賞を受賞した作家まで粒揃いだ。人口550万人に対してノーベル文学賞受賞者の比率が高いのは、国を象徴する文化であると言っても差し支えないだろう。
それに関連するかどうかはわからないが、ダブリンにはとにかく良質な書店が多い。メインストリートを歩けばいくつもの書店が目に入ってくる。各々のレイアウトが素敵で吸い寄せられてしまうのだ。新刊、古書問わず10店舗近くは確認でき、あっという間に時間が過ぎてしまった。手書きのPOPに書評をこしらえる書店も多く、普段読まないジャンルでもつい手に取ってしまう。最も興奮させられたのは、書店ごとに設けられている稀覯本棚だ。私の仕立て屋の名前でもある、G.Kチェスタトンの『奇商倶楽部』の初版本を探すことを旅の目的の一つに掲げていた。これほど良質な本屋が立ち並ぶダブリンならば見つけることができるのではないかと胸を躍らせて書店から書店を練り歩いた。ところが、稀覯本のほとんどはアイルランドの作家で、ついにお目当ての初版本を見つけることはできなかった。




アイルランドでよく口にしたのがアイリッシュシチューだ。ビーフではなくラムを使っているのが特徴で、くたくたになるまで煮込んだ野菜との組み合わせが絶妙だった。シチューにとどまらず、全体的にラム肉を使用した料理は多い。柔らかさを残しながらも、余分な脂を感じさせず滋味深い。これがすっかり気に入ったので滞在中はずいぶんと口にした。名産であるジャガイモ料理も多く、マッシュポテトやフライドポテトなど付け合わせとして登場する。これが美味い。マクドナルドではなく、モスバーガーのフライドポテトと表現すればわかるだろうか。ただしその量が凄まじいので、残さず食べるにはずいぶん苦労した。ちなみにアイルランドで“マック”といえばマクドナルドではなく、『Supermac’s & Papa』というアイルランド発のファーストフードを指すらしい。それを聞いて訪れてみたかったが、残念ながらタイミングを逃してしまった。





滞在中の為替は1ユーロが188円、1ポンドはなんと208円という信じられないレートだ。パンデミック前が125円前後だったことを考えるとこの為替はツーリストには痛い。手元不如意の旅行者に大変ありがたい存在なのが美術館だ。アイルランドでは、かつての宗主国である英国の影響を受けていることもあり、国立美術館や博物館の多くは無料だ。
私が訪れたアイルランド国立美術館には、地元由来の作家から稀代の名作まで網羅されている。中でもカラヴァッジオの『The Taking of Christ(1602)』は、1990年にダブリンにあるイエズス会の建物で発見された。長く失われた絵画と信じられていただけに、話題性と相まって同美術館の看板となっている。この絵画は裏切ったユダの一党がキリストを捕縛するところを描いている。ユダが接吻をする人物こそがキリストであると口裏を合わせていたのである。何かを悟ったようにも、諦めがついたようにもうかがえるキリストの表情をはじめ、今にも動き出しそうな力強い絵画だ。昨年訪れたマルタやナポリでもカラヴァッジオの大作に魅了された。ここダブリンでも釘付けになるとは考えもせず、思いがけない束の間の再会だった。日本では人混みを割ってなんとか作品の近くに行き、再び人混みにもまれながら次の作品を鑑賞する。これを繰り返していると疲労困憊し、出口の案内を発見すると安堵してしまう。アイルランド国立美術館は、自分の靴音が反響するほど静寂で、じっくりと美術品と対峙できる贅沢な場所だ。


映画『スターウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』に登場するジェダイ図書館がある。そのジェダイ図書館で、ヨーダとオビ=ワン・ケノービは消えた惑星カミーノについて談義するわけだが、そのモデルとなっているのがこのトリニティカレッジ図書館オールドライブラリーと聞くと、ファンとしては行かずにはいられない。最も有名なロングルームの長さは65mあり、両側に本棚がずらりと並んでいる。書籍の管理上の問題から、現在別の場所に移される作業が進行している。世界一美しい図書館と称されるだけあり、高さ数十メートルはある書棚が据わり、趣がある書籍が収まっている様相には息を呑む。







部坂 尚吾
1985年山口県宇部市生まれ、広島県東広島市育ち。松竹京都撮影所、テレビ朝日にて番組制作に携わった後、2011年よりスタイリストとして活動を始める。2015年江東衣裳を設立。映画、CM、雑誌、俳優のスタイリングを主に担い、各種媒体の企画、製作、ディレクション、執筆等も行っている。山下達郎と読売ジャイアンツの熱狂的なファン。毎月第三土曜日KRYラジオ「どよーDA!」に出演中。
江東衣裳
http://www.koto-clothing.com