Re: ロンドン屋外博物館|小説「倫敦塔」から読み取る漱石の「あれ」 | BRITISH MADE

Little Tales of British Life Re: ロンドン屋外博物館|小説「倫敦塔」から読み取る漱石の「あれ」

2026.08.21

前回記事で登場した旅行者「兄」は、何度か同じことを呟いていました。「漱石の時代でも『これ』を経験したのかなぁ」と…….。「これ」というのは、ロンドンの各ターミナル駅構内の大天井インフラ、ハイドパークやグリーンパークの広大な芝生と古い巨木の光景、地下鉄駅入り口の輝くテラコッタやヴィクトリア時代の赤レンガ建築、チューブと呼ばれるに相応しい丸い地下鉄トンネル、ロイヤルサイファ(王室の紋章)ーが刻まれた郵便箱(pillar box)などなど……のことです。そして、夏目漱石の滞在した1900年から現在に至って、いまだに変わらないものを眺めては、時空を超えた旅の気分に浸っているようでした。

ハイストリートとは何?マック木下英国記1936年創刊のロングセラー地図『A-Z』。改訂は毎年行われているものの、正式な「版数」としては2022年刊行分でもまだ18版に留まるとのこと。創刊当初はチャリング・クロスから半径約6〜8km圏内の2万3千の道路を網羅していましたが、再開発によりそのうち約5千の道路が消失。1970年代からは大ロンドン地区を含む半径25〜30km圏内へとカバー範囲を広げています。

ロンドンの街は、一歩足を踏み入れればどこもかしこも観光資源の宝庫と言えます。まるで、街全体がひとつの屋外博物館のようです。5年ほど前に寄稿した記事では、夏目漱石の小説「倫敦塔」をもとに、我が娘と巡った散歩道を紹介しました。しかし、その時の記事では、それぞれの観光アイテムや見どころについては、あまり触れられずにいました。そこで今回は1900年に漱石が実際に歩いたかもしれない「2つのルート」へと皆さまをご案内します。今回は、100年の時空を超えて、思いを馳せるロンドン逍遥のイメージをお伝えしたいと思います。

約2年間の留学生活を送った夏目漱石が見つめたロンドンは、一瞬の観光では味わえない、生活者のニオイに満ちていました。たとえば、どんよりと空が低くて暗いロンドンの長い冬、男性の社会生活の中心となったパブ、歴史博物館のようなロンドンの街並み、あまりにも退屈過ぎる日曜日、夏至を境に秋の気配、日照時間が長くても寒い夏(近年は猛暑日がつきものですが……)などなどの空気感や風土は、いまを生きるロンドンの暮らしにも、おどろくほどまっすぐに繋がっています。


ハイストリートとは何?マック木下英国記漱石が最初に暮らした下宿の跡地。入り口はひとつですが、内部は6世帯分のアパート(各2ベッドルーム)に分割されており、現在の資産価値は1戸あたり約60万ポンド(約1億2千万円)。1990年代以降、何度訪れても外観は当時のまま。漱石のロンドン生活の出発点となった場所です。

漱石がロンドンに到着した1900年の10月末から間もなく、日英両国は大きな歴史の転換期を迎えます。翌1901年1月にはヴィクトリア女王が崩御、4月には日本で昭和天皇が生誕されます。漱石は2月に女王の葬送の列を実際に目撃します。続く翌1902年6月には、新国王エドワード7世の戴冠式が執り行われる予定でした。しかし、直前の延期劇により、漱石がその式典を「眺める」ことになったのは、8月のこと。異国の激動を間近で見た漱石の筆跡が鮮やかに残されています。

漱石の気持ち

戴冠式が延期されたのは、エドワード7世の急性虫垂炎(当時の致死率は25%以上)にかかり、死線をさまようほど重篤だったため。しかし、漱石は瀕死の淵にあったエドワード7世の容態を案ずるどころか、戴冠式の準備と金が無駄になったことや、イベントに翻弄される人々の滑稽さを冷ややかに揶揄しています。この背景には、当時の漱石がカルチャーショック理論で言う「ショック期(言語と習慣の壁、孤独感がマックスの精神状態)」の期間に入っていたことが影響していると考えられます。ご存じのように、漱石のロンドン留学は神経衰弱に陥るほど苦しかったわけです。さらに、もともと権威や権力を虚飾として嫌悪する価値観を持つ漱石にとって、イギリス王室の動静に右往左往する人々の姿が、いっそう荒唐無稽に映ったようです。

漱石がこれだけネガティブで、根暗で、陰気なのに、彼の文章が我々を惹き付ける理由は何でしょうか? 一般に「ポジティブ思考」は知性の成果だと考える人も多いようですが、彼の示すその知性と表現力は、単なる愚痴やネガティブとは一線を画しています。むしろ、物事をありのまま直視し、現実を重んじるうえで思考を重ねた成果としてのユーモアと捉えることもできるのではないでしょうか。

つまり、国王の戴冠式がダメになったら、気の毒に思うべきという世間様からの同調圧力を払いのけて、「王様だからなんだってんだ、てやんでぇ」と本音を言ってしまうこと、権威者でも何者でもない個人の意見を取り上げること、そして、物事を多角的に見る方が「おもしれぇに決まっているじゃねぇか」と、江戸弁で言われているような心地よさ……。端的に言うと、漱石の魅力は斜に構えたその「ものの見方・考え方」の爽快さにあるのです。 そして、このスタイルは、決まりきった他人の評価に頼らず自分なりの楽しみ方を見出すという意味では、イギリス的個人主義に近い気もします。漱石の文章を読むことは、想像力をフルに使う、上質な「頭の運動」と言えるのかもしれません。


ゼロ地点以前

ところで、この稿をしたためるに当たって、小説「倫敦塔」を何度か読み返し、漱石の最初の下宿から、ロンドン塔までを何度か歩いてみました。漱石の最初の下宿は大英博物館に近いGower street(以下、ガウワー通り)の76番です。ここからロンドン塔までの距離は、せいぜい3マイル(4.8㌔)ですから、往復で約2時間。しかし、このルートを地図で観ただけでも、なんて豊かな散歩なのだろうと思うほど、様々なロンドンが見えてきます。当方が最初にこのルートを辿ったスマホ以前の時代、往年のベストセラー地図本”A to Z”を見ながら、漱石がロンドン塔まで辿ったであろうと考えられる道のりを実際になぞってみました。 まず、地図で全行程を見て、その距離の短さには拍子抜けしました。小説「倫敦塔」の中で「御殿場のうさぎが日本橋に放り出されたような」というほどの戸惑いや距離感は、実際の道のりからは感じられません。

むしろ、当時の漱石にとって本当に過酷だったのは、周囲の環境です。ロンドンに到着した10月28日といえば、日の入りは午後4時半ごろ。朝晩の気温は5度以下まで冷え込みます。当時のロンドンは、蒸気機関や暖房の石炭燃料による「世界最先端の煤煙(ばいえん)公害都市」でした。建物は煤(すす)でどす黒く汚れ、昼間でも街全体がどんよりと薄暗いのです。ましてや夜ともなれば、濃い霧と煙が混ざり合い、「街灯があっても足元すら見通せない」という記録が残っているほどです。

イギリスでは、10月末にサマータイムが終わると、秋を感じる間もなく、一気に暗い冬が襲いかかってきます。低い灰色の空に押しつぶされそうになりながら、体の芯まで冷える寒さに苛立ち、気分はどん底まで落ち込むこともあります。「まさに漱石が小説や日記で嘆いていたとおりの国だ」と、イギリスで生活を始めたばかりの当方自身も身に染みて共感したものです。それほどまでに、ロンドンの冬(11月〜4月)というものは暗く、人間の精神をじわじわっと追い詰めていくのです。


さて、観光でもしてみようか

その暗いロンドン住まいを始めてから間もなく(小説の記述では3日目のことですが)、漱石は「ロンドン塔を観に行こう」と思い立ったことで、小説「倫敦塔」という作品が世に出たわけです。 散歩の行程については、数行しかつづられていませんから、ここからは当方が実際にたどった経験からお伝えします。漱石の時代との比較を交え、皆さまのロンドン散策のヒントになれば、と思います。

漱石は出発地点ガウワー通りについては、特に記述していません。その周辺はロンドン大学(UCL)や大英博物館の近くで、当時から現代にかけて学生や観光旅行者で賑わっていることに変わりません。漱石は人に道を聞きながら、地図を片手にロンドン塔に向かったということですので、「陸ルート」と「川ルート」の2ルートを考えてみした。


陸ルート(実際と幻想との迷宮)

下宿のあるガウワー通りを南下し、ニュー・オクスフォード通りの角で左折して東に向かうルート。ホールボン界隈のドラゴン像でシティ・オブ・ロンドン(以下、シティ)の入り口を確認すると、ホールボン・ヴァイアダクト(高架橋)を渡ります。聖ポール大寺院を右手に眺めながら、シティのど真ん中チープサイドを経て、金融街バンク駅周辺へ。そこからロンドン大火記念塔で位置を確認しつつテムズ河畔を目指すと、東側にロンドン塔が現れます。

【1. 下宿76 Gower Street:ガウワー通り】 ⇒

【2. トッテナム・コート・ロード駅周辺】:活気あふれる繁華街。再開発されたモダンなエリアと歴史的な街並みの交差。 ⇒

【3. New Oxford Street:ニューオクスフォード通り】:1830年創業の英国最古の傘店「ジェームズ・スミス&サンズ」があります。趣ある外観は必見。漱石も立ち寄ったかも。 ⇒


ハイストリートとは何?マック木下英国記【陸ルートの1】有名な傘屋「ジェームズ・スミス&サンズ」。1990年代までは、質問しなくても傘の歴史や技術を話し出す職人さんが店番をしていましたが……。

【4. 大英博物館】:少し寄り道して外観やグレート・コート(大屋根の広場)を眺めるだけでも価値あり。 ⇒

【5. ハイ・ホルボーン / ブルームズベリー・スクエア】:東へ進むと、18世紀の面影を残す緑豊かな広場が。街全体が博物館の様相です。 ⇒

【6. ステイプル・イン】:ホールボン駅の先にある16世紀の貴重な木造(テューダー様式)建築。⇒


ハイストリートとは何?マック木下英国記【陸ルートの2】1666年のロンドン大火を奇跡的に免れた奇跡の建物「Staple Inn」(現在のファサードは1585年築)。この地は14世紀頃、イギリス全国から集まる羊毛などの取引や検税を行う拠点(staple)でした。 その目の前は、かつてロンドン・シティへの搬入品を検査・課税した関所「ホルボーン・バー」の跡地であり、ドラゴン像はシティの境界であることを今に伝えるシンボル。周囲の近代ビル群のなかで異彩を放つこテューダー朝建築は、建築史的にも極めて価値が高い「グレード1」の歴史的建造物に指定されています。

【7. ホールボン界隈のドラゴン像】:ここから「シティ・オブ・ロンドン(金融街)」の領地へ入る目印。(※近くの王立裁判所など法曹界の壮麗なゴシック建築群も一瞥できます) ⇒

【8. ホルボーン・バイアダクト(高架橋)】:かつてのフリート渓谷(自然国境)を東西に繋いだ、ヴィクトリア時代の国家的大事業。 ⇒


ハイストリートとは何?マック木下英国記【陸ルートの3】ヴィクトリア朝の粋を集めた大事業、ホールボーン・ヴァイアダクト。シティとウエストエンドを地勢的に隔てる「フリート渓谷」に架けられた、世界初の大立体交差(高架橋)です。橋の四隅で存在感を放つイタリアン・ルネッサンスの壮麗なパビリオンは、今でも上の高架と下の街路を繋ぐ美しい階段室になっています。パビリオンの内壁に刻まれた記録画からも、当時の土木工事の桁外れなスケールが伝わってきます。

【9. 聖セパルカ教会 / 旧ニューゲート監獄跡】:ロンドン大火を生き抜いた教会。北側の壁(ニューゲート通り側)の角には、ロンドン初(1859年)の公衆飲料水供給所(現在は遺構)があります。隣は現在の中央刑事裁判所(オールド・ベイリー)。 ⇒

【10. 聖ポール大聖堂】:ロンドンの象徴。 以前は入場無料でした。⇒


ハイストリートとは何?マック木下英国記【陸ルートの4】New Changeのエレベーターの中から臨むセントポール大聖堂。屋上からもロンドンが一望できます。

【11. パターノスター・スクエア & ワン・ニュー・チェンジ】:歴史的な門「テンプル・バー」が移築された広場。隣の商業施設「ワン・ニュー・チェンジ」の屋上テラス(無料)からは、大寺院のドームが間近に見える絶景の穴場! ⇒

【12. チープサイド / セント・メアリー・ル・ボウ教会】:「この鐘の音が聞こえる範囲で生まれた者が本物のロンドンっ子(コックニー)」と言われる伝統ある教会。 ⇒


ハイストリートとは何?マック木下英国記【陸ルートの5】「この教会の鐘の音を聞いて育った者だけが、ロンドンっ子(コックニー)てぇもんだ」と、つい江戸弁を使いたくなる聖メアリ・ル・ボウ教会。商社マン時代の当方は、毎日この辺でうろついていました。昼にLunch time serviceと看板が出ていたので、「へえ、イギリスの教会って、貧しい人に食事を施すのかな」と本気で思っていました。この場合のサービスとは「礼拝」ですね。平日の昼間、シティの喧騒から逃れたければ、いつでも入館可能です。

【13. 金融街バンク駅周辺(イングランド銀行 / ロイヤル・エクスチェンジ / ロンドン市長公邸)】:重厚な古典主義建築が集まる、シティのまさに心臓部。 ⇒

ハイストリートとは何?マック木下英国記 ハイストリートとは何?マック木下英国記 【陸ルートの6】シティと言えば、古代ローマ時代からの城壁。あちこちに城壁跡がありますが、一般居住地に囲まれていたりするので、住民への配慮も必要です。20年ほど前ですが、城壁を眺めるベンチで休憩しようとしたら、先客がいました。山東省から来たと言う若者から、城壁を背景にした写真を撮ってくれと頼まれました。母国の「万里の長城」にロマンを感じると言う彼は、写真を撮ってもらうためだけに、ヒトが来るのを3時間待っていたそうです。

【14. レデンホール・マーケット】:バンク駅から少し東へ。美しいヴィクトリア様式のアーケード(映画『ハリー・ポッター』のダイアゴン横丁のロケ地)。 ⇒ 【15. ロンドン大火記念塔(The Monument)】:大火の歴史を今に伝える塔。 ⇒

ハイストリートとは何?マック木下英国記【陸ルートの7】レデンホールマーケットの建物は、漱石がロンドンに滞在した時代にはすでに現在の姿になっていました。しかし、当方がシティの商社マンだった1980年代は現在ほど洗練されておらず、生肉や野菜の強烈なニオイが漂ってくる伝統的な生鮮市場そのものでした。当時、市場で働く人々や近隣のビジネスマンの胃袋を支えたのは、グリーシースプーンズと言われる場末のカフェ、英語の通じないサンドイッチバーやテイクアウトのイタリアンなど。そういった店の数々は、シティのビジネスマンの口コミから観光客を惹きつけて、次第に食のアーケードへと姿を変えてしまったなと、かつての同僚たちと語り合っています。

【16. セント・ダンスタン・イン・ザ・イースト】:テムズ河畔へ向かう途中にある、大火と空襲で廃墟となった教会跡地を利用した、緑豊かな隠れ家風パブリック・ガーデン。 ⇒

【17. ロンドン塔 & タワー・ブリッジ】:旅のゴールにふさわしい、ロンドンを象徴する歴史遺産と跳ね橋の絶景。



テムズ川沿いのルート

ハイストリートとは何?マック木下英国記【川ルートの1】かつてのテムズ川河畔は、引き潮になるたびに悪臭を放つ汚泥がむき出しになる、不衛生な泥湿地でした。1858年には「グレート・スティンク(大悪臭)」という異名が付けられるほどの異臭が発生し、風や潮に乗ったその悪臭はロンドンの中心部までを包み込んだと言われます。そんな暗黒の時代に終止符を打ち、美しいエンバンクメント(堤防遊歩道)と近代的な下水道網を築き上げたのが、このバザルゲット卿です。しかし、当時の下水道システムも、今や再開発に直面しています。

【1. ヴィクトリア・エンバンクメント・ガーデンズ】:テムズ川北岸の都会のオアシス。美しい花壇や彫刻を眺めた後、道路を横断して川沿いの遊歩道(エンバンクメント)へ。 ⇒

【2. クレオパトラの針】:ヴィクトリア・エンバンクメントに佇む古代エジプトのオベリスク。紀元前15世紀頃のもので、紀元後19世紀に英国へ寄贈。 ⇒


ハイストリートとは何?マック木下英国記【川ルートの2】ヴィクトリア・エンバンクメントから見渡すこの景色。今や背が高くなったロンドンの超高層ビル群は、新興金融街カナリー・ワーフへの流出に危機感を抱いたシティが、対抗策として高度化させた結果でした。古臭い街と言われたシティは現代的な機能を得て、金融のセンターとしての地位をさらに強固にしたのです。

【3. サマセット・ハウス】:遊歩道の左側にそびえる壮麗な新古典主義建築。かつては王立アカデミーなどが入居。中庭の噴水や冬のスケートリンクが有名。 ⇒

【4. 対岸のパノラマ】:歩を進めながら、ロンドン・アイやザ・シャードなど、テムズ川南岸の近代的なスカイラインを一望。 ⇒

【5. フリート川の出口(失われた地下河川)】:ブラックフライヤーズ鉄道橋の下にある、ロンドンで最も有名な地下河川の河口跡。現在も干潮時には、ひっそりと水が流れ出る様子が確認できます。 ⇒


ハイストリートとは何?マック木下英国記【川ルートの3】シティ西端のドラゴン像から徒歩10分。かつて東の要塞ロンドン塔と対をなし、王室がシティを監視・威嚇するために築いた西の要塞ベイナード城の跡地に佇むのは四角いブループラーク。 中世の要塞は、15世紀末にはテューダー朝の華麗な宮殿へと姿を変えたものの、1666年のロンドン大火で灰燼に帰す。バッキンガム宮殿よりもはるか昔の王室の舞台。

【6. ミレニアム・ブリッジ & テート・モダン】:歩行者専用のモダンな吊り橋。正面に見えるセント・ポール大聖堂のクローズアップは圧巻。対岸には元発電所のテート・モダン。 ⇒

ハイストリートとは何?マック木下英国記【川ルートの4】ミレニアム・ブリッジやザ・シャードに目が奪われがちですが、目を凝らせばロンドンの古い面影や歴史と時間の交錯も息づいています。橋の右岸(サザーク)にはグローブ・シアターがあり、その周辺には聖ポール大聖堂を設計したクリストファー・レン卿にまつわる古い街並みも残されています。派手さはありませんが、ロンドンの底深い文化的な魅力を静かに物語る光景です。

【7. ウォルブルック川の河口】:キャノン・ストリート駅の鉄橋の下。かつてローマ時代のロンディニウム(ロンドンの原型)の中央を流れて都市を潤し、現在は地下に埋設された幻の川の河口跡。 ⇒

ハイストリートとは何?マック木下英国記【川ルートの5】テムズパス(Thames Path)を歩いていると、ふとこうした歴史を説明する壁画に出会うこともあります。ロンディニウムと呼ばれたローマ時代には、ドジョウやウナギが庶民の常食だったのでしょう。壁画からは、テムズ河畔の港がヨーロッパ全域との交易で栄えていた様子がありありと伝わってきます。

【8. 密輸の歴史(ガリー・キー跡 & 旧税関)】:さらに東へ。かつて密輸が横行した波止場「ガリー・キー」の跡地と、19世紀に建てられた壮大な旧税関(カスタム・ハウス)。ロンドンの貿易の光と影を伝える場所。 ⇒

【9. 旧魚市場(ビリングスゲート)】:税関の隣。かつて世界最大の魚市場として賑わった歴史ある建物(現在はイベントスペース)。 ⇒


ハイストリートとは何?マック木下英国記【川ルートの6】日本で言えば、築地市場。シティの金融街の南にあった旧ビリングスゲート魚市場は、かつて世界最大級の魚市場でした。現存する旧市場ビルのファサードには、シティの紋章とともに、ラテン語でDomine Dirige Nos(主よ、我らを導き給え)と刻まれ、屋根には魚の風向計が輝きます。ちなみに、シティの北側にはスミスフィールド肉市場があり、現在も営業中ですが、こちらも将来的な移転計画が進行中。

【10. 聖ダンスタン・インジイースト:St. Dunston in the East】:(陸ルートでも紹介。空襲で廃墟となった教会跡地の公共庭園。川沿いから少し北へ入った隠れ家的な高台も風情あり。 ⇒

【11. スカイ・ガーデン】:「ウォーキートーキー(無線機)」の愛称を持つ高層ビルの最上階にある屋内庭園。ロンドンを一望できる無料の絶景スポット(要予約)。 ⇒

【12. ロンドン・ウォール(ローマ時代の城壁跡)】:タワー・ヒル駅周辺に残る、紀元後2世紀頃にローマ人が築いた城壁の一部。古代の痕跡が現代の街並みに溶け込んでいます。 ⇒

【13. ロンドン塔(本日のゴール)】:900年以上の歴史を持つ要塞・監獄(世界遺産)。漱石が『倫敦塔』でその不気味な監獄の側面を描いた場所。征服王ウィリアム1世が、強大な富と軍事力を持つ都市国家ロンドン「シティ」を外側から監視・牽制するために、この地政学的な位置に築いた絶対的な権力の象徴です。

このルートの大半は川沿いなので、物足りなく思う方もいらっしゃるかもしれませんが、テムズの風が心地よく感じられます。旅行者「兄」と当方は、こうして観て触れるだけで、様々な歴史的背景や、当時の人々の気持ちを想像し、共有できました。それはまさに時空の旅から、心を解放する旅へと広がっていきます。つまり、歩いて、観るだけで楽しめる「心の旅」というわけです。


ハイストリートとは何?マック木下英国記もともと高低差が少ないロンドンの地形ですが、対岸のサザークから眺めると、上の画像のようにロンドン塔は背後に迫る超高層ビル群の「谷底」に鎮座しているようにも見えます。一方で、タワーヒル駅から臨むロンドン塔は、下の画像のとおり。丘も低けりゃ、塔も低い。漱石が観たであろうその佇まいを、ぜひこの角度からご確認ください。

漱石の「あれ」とは?

ところで、漱石は小説で、「今まで身動きもしなかった余は急に川を渡って塔に行きたくなった」と記述しています。しかし、下宿からロンドン塔まで行くのに、どの「川を渡る」必要もありません。この記述については、著名な後人たちによって様々な解釈がなされています。漱石の「倫敦塔」はあくまで小説ですから、漱石自身によるロンドン塔についての様々な幻想が主題になっています。 現代の我々も、その足跡をたどりながら自分なりの幻想を抱き、散歩を楽しむのも一興と思う次第です。今、目の前に見えるものが、世間とどう関わってきたのか、どんな歴史を含んでいるのか。あるいは、自分とどう繋がり、漱石と共有できるものかどうかなどと想像を膨らませてみるのも時空を超えた旅の醍醐味とは言えます。ロンドンで過ごした漱石の「あれ」、つまり、彼の心の旅を追体験してみるもよし。あるいは、近ごろの流行りの答え合わせの旅のように、知識や想像でしか知らなかった世界を実体験して、ご自身の問いに対する「あれ」や「答え」が見つかるかもしれません。 なお、途中で様々なスポットに立ち寄るだけでなく、いろいろと興味を引かれることもあるので、片道3時間以上を見込んでおくといいでしょう。これらの散歩は何度繰り返しても飽きることがありません。

Text by M.Kinoshita


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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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